第三話

もう一曲くらい

また、いた。

大森駅の前。

少し前に、

通り過ぎるつもりだったわたしの足を止めた声。

名前は、

まだ知らない。

その日も、

白いギターを抱えて歌っていた。

*

人はたくさん歩いている。

駅前だから当たり前だ。

仕事帰りの人。

スマホを見ながら歩く人。

誰かを待っている人。

その中で、

あの子は歌っている。

一曲終わった。

何人かが通り過ぎる。

また歌う。

わたしは少し離れたところで聴いていた。

前に聴いた時と同じだった。

上手いとか、

下手とか。

そういうことを考える前に、

言葉が残る。

なんでなのかは、

まだ分からない。

また一曲終わった。

その子がギターから手を離した。

少しだけ周りを見る。

「……今日はもういいかな」

小さくそう言って、

足元に置いてあった黒いノートへ手を伸ばした。

終わるんだ。

そう思った。

別に、

わたしが困ることじゃない。

帰るなら、

それでいい。

なのに。

もう一曲くらい、

聴きたいと思った。

気づいたら、

歩いていた。

「すみません」

その子が顔を上げる。

「……はい?」

初めて、

ちゃんと顔を見た。

「今日、もう歌わないんですか?」

「え?」

「終わりですか?」

「うーん……今日はもういいかなって」

少し間が空く。

「……聴いてましたけど」

「え?」

「わたし」

その子が、

少しだけ目を丸くした。

「……ほんと?」

「はい」

「聴いてたの?」

「聴いてました」

「いつから?」

「何曲か」

「……そうなんだ」

知らない相手に話しかけられたからなのか、

歌っている時より少しだけ声が小さい。

「もう一曲くらい、

聴きたいです」

「……ほんとに?」

「はい」

その子が、

わたしの顔を見る。

少しだけ間があった。

それから、

「じゃあ……歌おうかな」

と笑った。

黒いノートを足元に戻して、

また白いギターを構える。

「何がいい?」

「わたしが決めるんですか?」

「だって、聴きたいって言ったから」

「そういう仕組みなんですか?」

「……違う?」

「知らないですけど」

その子が笑う。

少し前より、

声が大きくなった。

「じゃあ、好きなの歌ってください」

「わかった」

ギターが鳴る。

また、

あの声が始まった。

今度はさっきより近い。

目の前で聴くと、

声だけじゃなくて、

息を吸うところも。

ギターを見るところも。

言葉を置く時の顔も。

全部見える。

一曲終わった。

「ありがとうございました」

「わたししかいないですけど」

「一人いたじゃん」

「まあ、そうですけど」

「じゃあ大丈夫」

何が大丈夫なんだろう。

でも、

さっきよりずっと、

楽しそうだった。

「名前、なんていうの?」

「わたし?」

「うん」

「HINATAです」

「HINATAちゃん?」

「はい」

「わたし、YUME」

YUME。

初めて名前を知った。

「YUME」

「うん」

それだけで、

今までより少しだけ、

目の前の人が近くなった気がした。

大森駅前で歌っている子。

じゃなくて。

YUME。

*

「HINATAちゃん、楽器やる?」

「ベース」

「ベース!」

さっきまでの小さな声が、

少しずつ元に戻っていく。

「いいね」

「それだけ?」

言ってから、

あ。

と思った。

さっきまでなら、

たぶんそんな返しはしなかった。

YUMEも一瞬きょとんとしてから、

「かっこいい」

と言った。

「あとから足したでしょ」

「ちゃんと思ったよ?」

「ほんとに?」

「ほんとほんと」

YUMEが笑う。

わたしも少し笑った。

よく喋る。

思っていたより、

ずっと。

歌っている時は、

もっと静かな子だと思っていた。

「さっきの曲」

「どれ?」

「知らないやつ」

「ああ」

「自分で作ったの?」

「うん」

「曲、作るんだ」

「作るよ」

YUMEは、

足元の黒いノートを拾った。

「でも、最初はこっち」

「ノート?」

「うん。言葉」

そう言って、

開いていたページを少しこちらへ向ける。

文字がたくさんあった。

短いもの。

長いもの。

消した跡。

横に書き足された言葉。

何かの途中みたいな文章。

歌詞なのか、

まだ歌詞じゃないのか。

わたしには分からない。

「これ、YUMEが書いたの?」

「うん」

「曲にするため?」

YUMEは少し考えた。

「曲になるのもある」

「ならないのも?」

「あるよ」

「じゃあ、なんで書くの?」

また少し考える。

「忘れたくないから、とか」

YUMEがページを見る。

「その時に思ったこと、

あとで同じように思えるとは限らないし」

「……そっか」

「あと、書いといたら残るじゃん」

何でもないことみたいに言う。

YUMEは、

またノートを自分の方へ戻した。

わたしも、

それ以上覗こうとはしなかった。

でも。

さっきまで歌として聴いていたものの前に、

こういう言葉があるんだ。

それだけは分かった。

「なんか面白いね」

「なにが?」

「YUME」

「わたし?」

「うん」

「なんで?」

少し考える。

「まだ分かんない」

「なにそれ」

YUMEが笑う。

「でも、HINATAちゃんもなんか面白い」

「わたし?」

「うん」

「どこが?」

「まだ分かんない」

「真似したでしょ」

「した」

今度は、

二人で笑った。

*

気づけば、

最初に声をかけた時より、

ずっと長く話していた。

帰ろうとしていたYUMEは、

もう一度ギターを見る。

「もう一曲やろうかな」

「まだ歌うの?」

「うん」

「帰らなくて大丈夫?」

「まだ大丈夫」

さっきまでなら、

「ですか?」

と聞いていた気がする。

でも、

もう気にしなかった。

YUMEも、

何も気にしていない。

白いギターを構える。

わたしは、

さっきと同じ場所に立った。

名前も知らなかった声には、

YUMEという名前があった。

思っていたよりよく喋って。

よく笑って。

黒いノートに、

たくさん言葉を書いていた。

まだ、

この子のことはほとんど知らない。

なんであの時、

足を止めたのかも。

なんで言葉が残るのかも。

分からない。

ただ。

もう少し、

YUMEの歌を聴いていたかった。