第五話

大森駅前の伝説の夜

その日は、

いつもと同じ日のはずだった。

*

「HINATAちゃん」

「なに?」

「今日、人いないね」

「いないね」

大森駅前。

人はいる。

たくさんいる。

でも、

立ち止まる人はいない。

YUMEの前だけ、

人がそのまま流れていく。

「場所悪いかな」

「いつもここじゃん」

「時間?」

「いつもと同じでしょ」

「じゃあ今日が悪い?」

「そういう日なんじゃない?」

「そっか」

YUMEは白いギターを抱えたまま、

少しだけ人の流れを見る。

それから、

「じゃ、もう一曲」

と言った。

「やるんだ」

「やるよ?」

「誰も止まってないのに」

YUMEがこっちを見る。

「HINATAちゃんいるじゃん」

「わたしはいるけど」

「じゃあ一人いる」

それでいいらしい。

YUMEはギターを構えた。

そして、

いつも通り歌い始めた。

*

一曲。

二曲。

三曲。

誰も止まらない。

それでも、

YUMEは歌った。

わたしは、

いつもの場所で聴いていた。

もう、

この声を何回聴いたのか分からない。

最初は、

名前も知らなかった。

今は、

歌が終われば話すし。

くだらないことも聞くし。

何も話さないまま隣にいる日もある。

でも。

歌っているYUMEを見ると、

最初に足を止めた日のことを、

たまに思い出す。

上手いとか。

下手とか。

そういうことより先に、

言葉が残った。

その理由は、

まだ全部は分からなかった。

*

「次、これやる」

YUMEが黒いノートを開いた。

「新しいやつ?」

「うん」

「できたの?」

「まだ」

「まだなんだ」

「歌ってみたい」

ページを見ながら、

白いギターを鳴らす。

歌が始まった。

まだ荒い。

途中で言葉が止まる。

コードを間違える。

一度、

音も止まった。

「あ」

YUMEがギターを見る。

「間違えた」

「最初からやる?」

「ううん。ここから」

また鳴らす。

綺麗じゃない。

完成もしていない。

いつものYUMEなら、

もっとちゃんと歌える。

でも。

今日は、

言葉がやけに近かった。

上手く聴かせようともしていない。

まだ形になっていない言葉を、

ただ、

そこに置いていく。

そんなふうに聞こえた。

YUMEが最後の音を鳴らす。

「……どう?」

すぐには答えられなかった。

「変だった?」

「違う」

「じゃあ、なに?」

「ちょっと待って」

「うん」

YUMEは急かさなかった。

白いギターを抱えたまま、

わたしを見る。

ずっと気になっていた。

最初に聴いた時から。

どうして、

この子の歌だけ、

言葉が残るんだろう。

なんで、

何度もここへ来たんだろう。

なんで、

誰も止まらない日まで、

隣にいるんだろう。

「YUME」

「ん?」

「なんで、言葉から書くの?」

YUMEが少し首を傾げた。

「なんで?」

「うん」

「前も聞かなかった?」

「聞いたけど」

「忘れた?」

「忘れてない」

「じゃあなんで?」

「ちゃんと聞きたくなった」

YUMEは、

「そっか」

と言って黒いノートを見る。

少し黙る。

「忘れたくないからもあるし」

「うん」

「書いたら残るし」

「うん」

「……あと」

YUMEの指が、

ノートの端を触る。

「言葉って、

誰かの隣にいられる時あるじゃん」

「隣?」

「うん」

「自分がそこにいなくても」

少し考えて、

「なんか、寂しい時とかさ」

「うん」

「言葉ひとつあるだけで、

ちょっと違う時あるし」

それ以上、

綺麗には説明しなかった。

YUME自身も、

まだ考えているみたいだった。

「だから書くの?」

「たぶん」

「歌うのも?」

YUMEは少し笑った。

「届いたらいいなとは思う」

その言葉を聞いて、

何かが引っかかった。

*

「届いてるよ」

YUMEが顔を上げる。

「え?」

「YUMEの言葉」

「……」

「少なくとも、わたしには」

YUMEが黙った。

珍しい。

「最初に聴いた時から、

なんか残ってた」

「うん」

「歌も上手いし」

「うん」

「でも、それだけじゃなくて」

うまく言えない。

YUMEみたいに、

言葉をたくさん持っているわけじゃない。

だから、

そのまま言った。

「もっと届けばいいのにって思う」

YUMEが、

わたしを見る。

「もっと?」

「うん」

「誰に?」

「……もっと、いろんな人に」

言ってから、

自分の言葉なのに少し驚いた。

そんなこと、

今まで考えたことがなかった。

音楽は好きだった。

ベースも好きだった。

誰かと音を鳴らすのも楽しかった。

でも、

その先なんて考えたことはなかった。

今、

初めて思った。

もっと、

この言葉を聴く人がいたらいいのに。

「HINATAちゃん」

「なに?」

「今日、すごい真剣」

「いつも真剣でしょ」

「今日はもっと」

「うるさい」

YUMEが笑う。

その声を聞きながら、

ふと、

別の音を思い出した。

*

迷いなく置かれていく、

KANAのギター。

楽しそうなのに、

全部をちゃんと聴いていた、

RINOのドラム。

今まで、

別々だった。

YUMEの声も。

KANAのギターも。

RINOのドラムも。

それぞれ、

別の場所で残っていた。

でも。

もし。

あのギターと。

あのドラムと。

この声が、

同じ場所で鳴ったら。

どうなるんだろう。

初めて、

そう思った。

「YUME」

「ん?」

「今度さ」

「うん」

「スタジオ、入らない?」

YUMEが瞬きをする。

「スタジオ?」

「うん」

「HINATAちゃんと?」

「わたしと」

少し間を置く。

「あと二人」

「二人?」

「ギターとドラム」

YUMEの顔が少し変わった。

「バンド?」

「まだ違う」

「違うの?」

「一回、合わせてみたいだけ」

「なにを?」

「YUMEの曲」

YUMEが黙った。

さっきとは違う沈黙。

「……わたしの?」

「うん」

「HINATAちゃんもやる?」

「ベース弾くよ」

「ギターの人、どんな人?」

「すごく上手い」

「ドラムは?」

「ずっと楽しそう」

「なにそれ」

「会えば分かる」

YUMEが少し考える。

白いギターを見る。

黒いノートを見る。

それから、

わたしを見る。

「やってみたい」

「ほんと?」

「うん」

「知らない人二人いるけど」

「うん」

「大丈夫?」

「HINATAちゃんもいるんでしょ?」

「いるよ」

「じゃあ、やってみる」

少しだけ、

胸の奥が軽くなった。

「分かった。予定聞いてみる」

「いつ?」

「まだ決めてない」

「そっか」

YUMEが笑う。

「楽しみ」

「まだ何も決まってないよ」

「でも楽しみ」

「……そっか」

「うん」

*

そのあと、

YUMEはもう一曲歌った。

最後まで、

誰も立ち止まらなかった。

客は、

わたし一人だった。

白いギターが鳴る。

YUMEが歌う。

わたしは、

いつもの場所で聴いている。

見た目は、

いつもとほとんど変わらない夜だった。

でも。

歌を聴きながら、

わたしの頭の中には、

初めて、

別々の場所にいた三つの音があった。

YUMEの声。

KANAのギター。

RINOのドラム。

まだ、

一度も一緒には鳴っていない。

それでも。

一度だけ、

聴いてみたいと思った。